■はじめに
サンガーノ、自由と優しさを求め続けた自己愛の画家。技術や技巧に頼らない本能だけのアート「新自由表現主義」の旗手は、どこからやって来て、そしてどこへと向かうのだろうか。本稿ではサンガーノの芸術の本質に迫ろうと思うが、まずその前に一個人としての生い立ちにフォーカスしてみたい。
書き始めて気づいたのだが、サンガーノは芸術家を志す以前も、数多くのエピソードを持っている。そのため、予想外に原稿にボリュームが出てしまうことになってしまった。サンガーノの過去については、既にご存知の読者も多いかと想像するが、個々のアート作品を評論してゆく上で、作者の生い立ちを振り返ることは不可欠でもある。退屈かも知れないが、我慢して読み進めてもらいたい。
■サンガーノ、その生い立ち
インターネット上の情報によると、サンガーノの本名は「宮森勇人(みやもり・はやと)」、出身地は石川県で、生年月日は1986年6月11日とある。
中学、高校時代は陸上部に所属し、いずれも駅伝で全国大会に出場の経験があるというから、少年期は文化系というよりも、むしろ体育系の活発な男子だったようである。
高校を卒業するとサンガーノは地元を離れ、京都の伏見にある龍谷大学へと進学する。実家を出て私立の大学に進学するぐらいであるから、生まれ育った家庭環境はまずまず悪くないものだったのだろう。
■大学入学から中退、そして流転の日々
大学では学業の傍ら、ダンスやファッション系のサークル活動に精を出すも、1年半ほどで中退をしてしまう。大学生活に疑問を感じてとの理由だが、疑問の詳細は明らかにされてはいない。仏教系大学の静かで穏やか校風が、都会での刺激ある生活を求めたサンガーノには些か物足りなかったのだろうか。
1年半の大学生活で唯一の収穫は、自身がファッションに強い興味を抱いていることを再確認できたことだった。サンガーノは中退後、一念発起してアルバイトで費用を稼ぐと京都を後にし、東京の名門服飾専門学校である文化服装学院へ入学する。以後「ファッション」は、サンガーノのアートを語る上で重要なキーワードとなる。
ところが、そんな苦労をしてまで入学した文化服装学院も、「ファッションは好きだけど、将来ファッション業界の道に行くことはないな」という言葉を残し、1年で辞めてしまったのだ。ここからサンガーノは、文字通り流浪の時代へと突入することになる。
居酒屋のホールスタッフに始まり、清掃業、引っ越し屋、テレアポなどの仕事を転々とした若き日のサンガーノ。しかし、能力が低かったがために、どこででもすぐクビにされたわけではない。むしろその逆で、テレアポ時代には能力の高さを認められてベンチャー企業からスカウトされたり、販売会社時代はトップの営業マンとして十分な働きぶりを見せていたという。
能力があるにもかかわらず、職を転々としたのはなぜか。平凡を嫌い、常に刺激を求めるサンガーノは、どんな仕事でも慣れてしまうと「退屈」に感じてしまい、それがどうにも我慢できなかったからだった。
そう考えると、あれほどに興味を抱いていたファッションを仕事にしようと思わなかったのは、「ファッションは飽きることなく、永遠に好きなままでいたい」という、サンガーノの防衛本能のようなものだったのかも知れない。
■家入一真、イケダハヤトとの出会い
会社という組織に縛られること、同じ行為を繰り返していくことが、自分に向いていないことを悟ったサンガーノは、その後はフリーランスとしての道を歩むこととなる。その大きな転機となったのが、連続起業家でCAMPFIRE創設者でもある家入一真、そしてプロブロガーのイケダハヤトとの出会いだ。
「社会活動家」と名乗り、イベントの運営やフリーペーパーの取材活動をしていたサンガーノは、都知事選に出馬し世間を驚かせた直後の家入と、高知に移住して過激な情報発信をしていたイケダの、自由かつ大胆な生き方に共鳴し、二人のトークイベントを開催することを思い立ったのだ。
それまで手掛けたイベントよりも、はるかに大規模なこのトークショーは、サンガーノにとっても一大ギャンブルであったが、大物インフルエンサーである二人の魅力も手伝い大盛況に終わった。熱気あふれる会場の雰囲気に、確かな手応えを感じたサンガーノ。失敗と挫折の繰り返しだった自身にとって、故郷の石川を離れてから初めて味わう「成功体験」だったのではないだろうか。
このイベントをきっかけにサンガーノは、ますますその活動に拍車をかけていく。テレビ局が取材にくるほど注目を集めた、ホームレス小谷の「花やしき」での結婚イベントのプロジェクトメンバーにも名を連ねたりするなど、のちに「界隈」と呼ばれるコミュニティ内でプレセンスを増していくのである。
■人生最大の挫折を味わう
所謂「フリーランス」として、着実に成果を積み重ねて来たサンガーノだったが、28歳の時に大きな落とし穴が待っていた。「世の中を面白くするためには政治を変えるべきだ!」と政界進出を目論み、渋谷区の区議会選挙への出馬を表明するも、自身初の「選挙」という重圧の前に屈し、投票の3ヵ月前になって「やっぱり政治家になるのは自分には向いていない」との言葉を残し九州方面へと逃亡、その後は故郷の石川県へと帰ってしまったのだ。以後、サンガーノは実家でニート同然の暮らしをおくるようになる。
■表現者としての第一歩
そのニート時代に始めたのが、知人に勧められて知った「ブログ」の執筆であった。誰にも遠慮することなく、想いをそのまま文字に乗せて広く世間に発信するブログは、サンガーノの内に秘められていた表現者としての本能を大いに刺激することになる。
サンガーノのブロガーとしての最大の実績は、2016年7月の「プロブロガーが自分の1日を50円で何でもする」という企画だろう。
更新!わたくし、みやもの1日を50円で売ります!1か月限定です! #はてなブログ
— サンガーノ@サンガーノ応援団スタートしました! (@Miyamo_H) July 2, 2016
【一ヶ月限定!】プロブロガーの1日を50円で買いませんか? - 未来は変えられるの?https://t.co/C1juZhyeOv pic.twitter.com/0EhySCJuv1
これがその当時のツイートである。
サンガーノ自身にとってこの企画は、ちょっとした話し相手だったり、買い物のお付き合いといった、見ず知らずの方のお手伝い感覚のものでしかなかった。今で言うところの「レンタルなんもしない人」のコンセプトを先取りしただけの話なのだが、この企画は予想を裏切って激しく炎上することになる。
それはある日、一人のtwitterユーザーが企画の裏をかくような形で「50円で雇ったサンガーノに別の日雇い労働をさせ、その日雇い労働の賃金を振り込ませる」という底意地の悪い依頼を思いついてしまったことに起因する。
サンガーノはこの依頼に対し、「あなたがぼくの身になったらどう感じるのですか?それは嬉しいですか」と、あくまで穏やかに拒否の態度を打ち出すのだが、相手は譲る気配もなく議論は平行線を辿る一方。やがてSNSを通じて大勢の野次馬も集まると、サンガーノはネット上で文字通り紅蓮の炎に包まれたのだった。
■初めての炎上で世間の闇を知る
善意で始めたつもりの企画が、心無い人間たちからよってたかって投げつけられる火炎瓶で灰燼に帰す形となり、サンガーノは世の中が自分の想像以上に悪意に満ちていることを身をもって知ることになる。
今回の炎上で、「何でもやる!」って言ったら、クソみたいな返しをしてくる人がこんなにもいるんだと学びました。
— サンガーノ@サンガーノ応援団スタートしました! (@Miyamo_H) July 4, 2016
ネットシテラシーの前に「人としての思いやり」というか「他人の気持ちへの想像力が欠如している人」が日本にはわんさかいるんだなと。
ぼくは、今回の「自分の1日を50円を売る」において、その人のためになることをやりたいと思って、あえて自分を安く売って手が届きやすくしました。
— サンガーノ@サンガーノ応援団スタートしました! (@Miyamo_H) July 4, 2016
その人の悩みを解消することで自分の存在意義を実感したかった。
依頼のほとんどは悩みを抱えてる人がほとんどで、依頼がくる度に嬉しかった。
批判コメントをしたみなさんは居場所の欠如があるから、ストレスの発散にぼくを攻撃するんじゃないかと。
— サンガーノ@サンガーノ応援団スタートしました! (@Miyamo_H) July 4, 2016
ストレス国家ジャパン。
日本には「居場所が少ない」ことが今回の炎上で露呈されたと思っています。
これがぼくが今回感じたことです。
— サンガーノ@サンガーノ応援団スタートしました! (@Miyamo_H) July 4, 2016
ぼくは日本を「他人の価値観を認められる」、もっと寛容な国にしたい。
それがぼくのビジョンであり、ぼくのやりたいことです。
なので、現在ハイパーリバ邸という「第三の居場所」を作るクラウドファンディングしてるのでぜひ応援してください!てへぺろ。
騒動が落ち着いた頃に、サンガーノはtwitterでこのように述懐しているが、この騒動はサンガーノの心に想像以上の大きな傷痕を残したのだった(余談ではあるが、筆者はこの一連の炎上騒動もサンガーノらしさに満ちた、一種のプロセスアートであると解釈している)。
■ハイパーリバ邸プロジェクト
ブログ企画での炎上に心を痛めたサンガーノではあったが、その頃に並行して進めていたもう一つの企画「ハイパーリバ邸」は、順調に実現への階段を登っていた。
このハイパーリバ邸の元にあるのは、もちろん家入一真が発案したあの「リバ邸」である。「世の中の枠組みや空気に苦しくなった人たちが集まる居場所であり、そこで各自が何かしら独自のアウトプットを追求する場所」をコンセプトにした、いわば現代の駆け込み寺といったユニークなシェアハウスは、当時既に全国規模で地域の特色に沿った多用な形で存在しており、多くの界隈著名人を輩出し注目を集めていた。
そのリバ邸をサンガーノも作ってみようと決心したのである。せっかく入学した大学にも馴染めず、また社会で働くこともままならず、郷里で引きこもり同然の生活をしていたサンガーノにとって、何よりも必要だったのは、誰もが認めあえる「居場所」だったに違いない。ちなみに、リバ邸の前に「ハイパー」とつけたのは、その企画にかける意気込みを表したものだという。
■クラウドファンディングへの挑戦
ハイパーリバ邸を現実のものにするために必要なのは、一にも二にもお金であることは間違いなかった。しかし、ブログの収入だけで糊口をしのいでいた当時のサンガーノに、シェアハウスを開設し運営できるだけの経済力は当然ない。
そこで目をつけたのが、当時はまだ目新しかった「クラウドファンディング」だ。クラウドファンディング(crowdfunding)とは、群衆(crowd)と資金調達(funding)の二つの言葉を組み合わせた造語で、インターネットを通して自分の実現したい想いを発信することで、その想いに共感した人や企業から資金を募るサービスのこと。
サンガーノは早速、ブログで鍛えた文章力でハイパーリバ邸に対する熱い想いをしたためると、クラウドファンディングを通じて世間へ訴えかけた。すると、炎上した「1日を50円で売ります」企画とは真反対に、共感の輪がまたたく間に世間へと広がり、130万円という当初の目標額を遥かに上回る、210人から総額192万1555円という巨額の支援金が集まるに至ったのだ。
以後、サンガーノは苦境に陥ると、決まってクラウドファンディングに活路を見出すこととなるが、それについてはまた後で触れることにしたいーー。
■アルコール依存、そして二度めのニートへ
資金調達にも無事に成功したサンガーノは、他の仲間とともに世田谷区の三軒茶屋に念願のハイパーリバ邸を構えた。ところが、「1日を50円で売ります」企画の炎上でダメージを負った精神に、ハイパーリバ邸完成に伴う「燃え尽き症候群」も相まってか、重度の無気力状態に陥ってしまった。
やがて昼夜問わず酒びたりになったサンガーノ。惨めな自らの姿を仲間に晒すことが次第に耐えきれなくなり、再び故郷の石川に逃げるように引き返すと、今度は引きこもり生活の傍らで心療内科に通う辛い日々を3ヵ月ほど続けることとなる。
■再びの上京、そして突然のラッパー宣言
3ヵ月後の2017年5月、サンガーノは再び東京へと戻ってきた。それが「就職活動」のためだったということは、あまり知られていないが、当時のブログにはこのように書かれている。
初めて「この会社だったら働いてみたい」という企業を見つけたんです。
ブログとも強烈に相性が良い社風で、ここで働けたらブログを武器にさまざまな可能性を広げられるという自信がありました。
失意のどん底に沈んでいたサンガーノを再び上京させるまでに魅力的な会社とはどんな会社だろうか。具体的な社名は明らかにされてはいないのだが、筆者はこれまでの経緯から察するに、それは「CAMPFIRE」社ではないかと見ている。
さて、この就職活動は全力で臨んだものの失敗に終わるが、その後も東京で生活することにしたサンガーノは、なんと以後はラッパーとして活動することを決心する。
音楽の素養も経験も全くない状態からのラッパー転身は、周囲からは無謀としか思えない挑戦であった。渋谷区議会選挙の出馬騒動の件もあって、ネット上では「また無責任に思いつきで行動するのか」などと批判の声も多くあがったが、「不確実なものにあえて賭けてみる」ことが人生の醍醐味だと考えるサンガーノに、迷いはまったくと言ってよいほどなかった。
その無謀とも思える挑戦を後押ししたのが、テレビ番組「情熱大陸」の存在だったことは知る人ぞ知るエピソードだろう。当時のブログには次のように書かれている。
ぼくはずっと「情熱大陸に出たい」と言い続けてますがラッパーとして武道館でLIVEできるくらいの器になれば、情熱大陸の道も開けるんじゃないかと予感がしたんです。
■ラッパー断念、そして芸術の道へーー
ところがである、やはり「情熱大陸に出たい」という動機が不純すぎたせいだろうか、ラッパーの道はこれまで最短のわずか2ヵ月で断念することに。サンガーノはラッパーを断念するにあたってこう述べている。
本格的な「曲作り」を実際にやってみてだんだん分かってきたことなんですけど、「ぼくってラップで世の中に言いたいことってそんなに無いな」と気づいてしまったんですよね。
ぼくは今まで自分で言うのも恐縮ですけど、かなり生きづらさを感じながら生きてきたし、それなりに突飛な経験もしてきたという自負がありました。
ですから、その経験を存分に生かして、まるでマグマのようにドバドバと怨念のこもった曲を描けいていけるんじゃないかと思っていたんですよね。
しかし、それがたった3曲描いただけで、世の中に「これは言いたい!」というメッセージが出て来なくなってしまったんですよ。
ちなみにこの発言、当時はサンガーノ自身が「ラッパーとしての才能の無さ」を認めたしたものとして解釈されていたが、近年の研究では「たった3曲でラップを極めてしまったから、もうラップを続ける必要がなくなった」と解釈とする説のほうが有力である。
そのように解釈すると、表現方法としての「言語」に限界を感じたサンガーノが、視覚へダイレクトに訴えかける「絵画」という、より自由な表現方法に目を向けるのにも納得がいく。
さて、次回からはいよいよ、画家としてのサンガーノの足跡をたどることにする。サンガーノが初期に好んで描いた「虎の絵」に秘められた謎を「美の巨人たち」チックに解き明かしていこう。
※文中敬称略